美術教育

美術教育とは

美術教育には二つの意味が含まれている。「美術の教育」と「美術による教育」、すなわち美術という「技術」教育と美術という「芸術」を通じての人間形成である。
前者はカリキュラムの一つに過ぎないが、後者は「知育」とともに、人間教育のための二本柱なすはずのものである。
三元社「美術教育ハンドブック」より引用しました。


「第24回全国教育美術展」を見に行って、幼稚園の子たちの作品の陳んでいる最初の壁面に向かったとき、とたんに、「うまい。.実にうまい」と思い、また「が、うますぎる。技巧的でありすぎる。整いすぎていて、画面から飛出して くるような子どものいぶきが不足している」とものたりない気持ちもした。
これは後で雑誌「教育美術」の本展発表号を求めてみて解ったことだが、三越の会場に陳んでいる作品は本展の一部で、雑誌の図版で「これはおもしろそうだ」と感じた作品でも見当たらないのがかなりあるから、私の見たい角度からは、この東京展が必ずしも入選全作品の代表ではないかもしれない。
こんなことを書くのはちょっとおこがましいが、はじめに私自身の美術教育への姿勢をお伝えしておきたいためにあえて申述べると、私は画家(絵で食っているという意味ではなく、制作していることで)を宣言しながら、片方で子どもの美術グループをつくって、もう20年近くも、美術をたのしむ子たちの姿にあれこれ考えつつ接してきた。そんな時間の自分を画家だとは思っていない。
その両面を持った結果が・・・「人間一般に必要な美術教育では、万人に共通する高邁な情緒的理想を掲げず、技法を技法として教えず、一人一人の人間に、色材等を道具にして、本日只今を最高に発散させることを考えればよい。一人一人の人間が如何なる環境の中でも自己の中の社会人と個人を区分して、個人の中の夢や希望を大切にし、誰はばからず赤裸々に喜怒哀楽の花を咲かせる場をつくりうる素地を培ってやらねばならない。また、個々の人間の出来かたの相違を尊重して、ねばり強い子、瞬間的な爆発型、内攻型、多弁型、明朗型、思考型、等々、それらの子のすべてを認めねばならない。
そうした個々が、色材等を媒介体として、自己を存分に発散してくれたとき、結果的には、血の通った観る人に訴えかける魅力ある作品が生まれるのだ」・・・と、私自身に言い聞かせた。
だから、教育美術展の会場に入って、いきなり観た幼稚園のこどもの作品に「うまい」と感じつつ物足りなさを覚えたのは、どの作品にもヤンチャ坊主や鼻たれ小僧がいなくて、みんなすました“よそいきさ”で整っていることだった。
小・中学生の作品に眼を移してゆく。
どの作品も驚くばかりのうまさである。
一点一点ていねいに観ると、楽しいのやおもしろいのや、人間感情のよく出ている作品はあるのだが、全体を通じ、どの作品もが、調子は美しく、キメ細かで、品はよく、どの点から突いても隙のない優等作品で、そのことが、壁面全体にそうした雰囲気を持たせ、せっかく一点一点の作品が持っている個性的な輝きを相殺させて見えると思った。
もっと、不器用とか荒々しいとか泥臭いとか、一般的には誉め言葉にならないような表現で、しかも魅力ある良い作品があるはずだ。
この種の大がかりな展覧会には、そのような良さを持つ作品も大いに取り上げて、これを観にくる一般の子どもや親たちに、「こんな絵だったらぼくにも描けるよ」との安心感を持たせ、絵を描く喜びを、社会全体に拡大する義務があるのではないだろうか。

美術手帳1964年3月号 宮脇公美「児童画と創造」より抜粋しました。
尚、表現、漢字とひらがなに於いては当時のままで掲載しました

研究論文・研究ノート

大場六夫著