自閉スペクトラム症の誤信念課題から観る心の理論
― 他者の心的状態を理解する力の発達的視点から ―
1. はじめに
人間の社会的行動を理解するうえで、他者の意図・信念・感情を推測する能力、すなわち「心の理論(Theory of Mind, ToM)」は重要な役割を果たす。この能力は、他者の行動の背後にある心的状態を理解し、適切に対応する社会的スキルの基盤となる。
本稿では、心の理論の発達過程を説明する代表的課題である「誤信念課題(False Belief Task)」に着目し、とくに自閉スペクトラム症(以下、ASD)児における遂行特徴から、心の理論の発達的特性とその支援的意義を考察する。
2. 心の理論とは
心の理論とは、他者が自分とは異なる信念や知識、感情をもつことを理解し、それに基づいて他者の行動を予測・解釈する認知的能力である(Premack & Woodruff, 1978)。
発達的には、通常発達の子どもはおおよそ4歳前後に、他者の誤った信念を推論できるようになる。この能力の獲得は、社会的相互作用、共感性、そしてコミュニケーションの基盤として機能する。
3誤信念課題(False Belief Task)
代表的な誤信念課題は「サリーとアン課題(Baron-Cohen, Leslie, & Frith, 1985)」である。
物語形式で、ある人物A(サリー)が物を隠し、別の人物B(アン)がその物の場所を移動させる。その後、サリーが戻ってきたとき、「サリーは物をどこに探しに行くか」を問うものである。
この問いに対し、通常発達児は「サリーは元の場所を探す」と答えるが、ASD児はしばしば「実際の場所(移動後の場所)」を答える傾向を示す。
この違いは、「他者の信念(心的状態)」を自分の知識とは独立して表象することの困難さを示唆している。
4. ASD児における心の理論の特性
Baron-Cohenら(1985)は、ASD児が誤信念課題において特有の困難を示すことから、「心の理論の欠如仮説(Theory of Mind Deficit Hypothesis)」を提唱した。
ASD児は、他者の意図や信念を推論する代わりに、外的行動のパターンや規則性に基づいて状況を理解しようとする傾向がある(Frith, 1989)。
これは、社会的直感や文脈的理解の弱さにつながり、結果として対人関係の困難やコミュニケーションのズレを生む要因の一つと考えられている。
5. 近年の研究と再解釈
心の理論の欠如は「全欠如」ではなく、「情報処理のスタイルや方略の違い」として再解釈されつつある。
たとえば、同じ誤信念課題でも、視覚的支援や社会的文脈を具体的に提示するとASD児の成績が向上する(Happé, 1995)。
また、神経科学的研究では、内側前頭前野や側頭頭頂接合部といった心的状態理解に関与する脳部位の活動が、ASD児では異なるパターンを示すことが報告されている。
これらの知見は、ASD児の心の理論が「質的に異なる発達経路」をたどる可能性を示している。
6. 支援的示唆
ASD児の社会的理解を支援するためには、「心的状態の明示化」や「視覚的・物語的支援」が有効とされる。
・絵カードやストーリーボードを用いた心情理解の練習
・「なぜこの人はこう思ったのか」を考えるメタ認知的活動
・実際の社会的状況でのロールプレイを通した体験的学習
これらの方法は、心の理論の理解を単なるテスト課題に留めず、実際の社会生活に結びつける重要な手立てとなる。
7. まとめ
誤信念課題は、ASD児の心的理解の特性を明らかにする有効な手段であるが、その結果を「欠如」として単純化するのではなく、「異なる認知スタイル」として理解することが求められる。
ASD児にとっての社会的世界の理解は、異なる道筋をたどる可能性があり、その特性に寄り添う教育的・療育的支援が不可欠である。
心の理論の発達を「違いとしての多様性」として捉える視点が、インクルーシブな社会の実現にとって重要である。
参考文献
* Baron-Cohen, S., Leslie, A. M., & Frith, U. (1985). Does the autistic child have a “theory of mind”? Cognition, 21, 37–46.Frith, U. (1989). Autism: Explaining the enigma. Blackwell.
* Happé, F. (1995). The role of age and verbal ability in the theory of mind task performance of subjects with autism. Child Development, 66, 843–855.
* Premack, D., & Woodruff, G. (1978). Does the chimpanzee have a theory of mind? Behavioral and Brain Sciences, 1, 515–526
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